異なる価値観を感じたいなら、海外よりも地方に行くべき

『わかりあえないことから コミュニケーション能力とはなにか』(平田オリザ 著)を読みました。高校の旧友と意見が合わない、彼女となぜかすれ違う、基本的に相手の言っていることが理解できないーーというような悩みを持っている人には、ちょっとだけ手にとってほしい一冊です。

今回は、本著で述べられている日本のコミュニケーション文化について思うところを書いていきたいと思います。

現代は、「察しあう文化」と「説明しあう文化」の間に挟まれている

「わかりあえない」というタイトルだけでアマゾンで即ポチした本著ですが、ひとまず半分より前の部分はやたら長い前置きなので飛ばし読んでいいと思います。そんなこんなで気になった文章は、日本のコミュニケーション文化について。

一般に、日本社会は、ほぼ均質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体=ムラ社会を基本として構成され、その中で独自の文化を培ってきたと言われてきた。(中略)実際、私たちは、この「わかりあう文化」「察しあう文化」の中から、素晴らしい芸術文化を生み出してきた。

さて、この「察しあう文化」から素晴らしい芸術文化が生まれてきたと聞いて、大分県の国後半島で開催している国後半島芸術祭を思い出しました。

いや、大分県と言えば別府温泉くらいしか思いつかねえから。

という声がボソボソと聞こえてきそうだけれど、そんな辺境の地でANAやKEENの協賛がついておっきな芸術祭を催していると聞いたらビックリするでしょう。

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 引用:国東半島芸術祭公式サイト

国後半島芸術祭についての細かい話こちらを見ていただいて。あとはcinra.netの記事を見ると全体像や開催目的がわかりやすいです。

猪子寿之(チームラボ)×山出淳也 アブない秘境・国東半島のアート - アート・デザインインタビュー : CINRA.NET

で、本著が伝えたかったことというのは、「これからの時代は価値観の異なる人たちと、どうにかしてうまくやっていく能力が重要だよ」(協調性より社交性)と述べていることです。そこで、価値観が異なると聞いて真っ先に思い浮かぶのは海外に身を置くこと。しかしながら、それはなんか違うなあと思っている節があります。

現代は、本著で語られている日本の「察しあう文化」と海外の「説明しあう文化」の間に挟まれている気がするんです。だって、もう身近に海外の人がいるし、気軽にボン・ボヤージュ!って若者はよく言っています。加えて、相手の気持ちを感じ取ってよ!このバカ……!みたいな雰囲気がどんなところでも濃く残っているのも事実。

だからこそ、異なる価値観やライフスタイルと接触する機会を作るなら、いまは海外よりも村社会によって形成されてきた日本の地方を訪れて体感してみるのも、間違いなく一つの選択肢だと思います。

異なる価値観に触れるなら、芸術を入り口にする

学校の文化祭では毎年恒例の文化があるように、地方に行ったら、「芸術祭」を入り口にすればよいと思います。文化にこそ過去から継がれてきた本質が宿るはずだから、異なる価値観に出会えるはずです。

これに関して、チームラボの猪子さんがWIREDの対談で語っていたことがしっくりきたので引用します。

猪子 ぼくは、文化って無意識に連続していくものだと思っていて、「いま」に最適化するものをつくると、自然と本質は受け継がれていくと思っています。アートというのは、もっと意図的に過去や未来に、もしくはいま気がついていない価値観に継続させる装置だと思うんです。

アートは、いま気付いていない、あるいはいま価値が低いとされているものの価値観を変える、スイッチの役割をもっているんです。 

南條×猪子対談:「寛容な」都市が、未来へつながる「いま」を生み出す【Innovative City Forum】 « WIRED.jp

芸術が価値観を変えるスイッチの役割を持っているとするならば、日本の「説明しあう文化」のなかに飛び込むことは、つまり異なる価値観やライフスタイルの中に飛び込みこと。そしていまの自分が持っている既成概念を取っ払ってくれる可能性が大いにありうるということです。

さいごに

本著で述べられている「自分と価値観やライフスタイルの違う『他者』と接触する機会をシャワーを浴びるように増やしていかなければならない時代」であるならば、海外に渡航するよりも、今なお、ムラ社会の風習や考え方の根付く場所に訪れてみるのはグッドアイデアかもしれません。